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東京高等裁判所 昭和39年(う)1087号 判決

被告人 森山文夫

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人岩本義夫提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これをここに引用する。

控訴趣意第一点及び第二点について。

所論は、原判決は自動車運転業務に従事する被告人が原判示事業用大型自動車(観光バス)を運転し原判示場所の「自動信号機の設置してある十字路交さ点にさしかかつた際、停止信号のため一時停止している大型貨物自動車の直後に停車し、信号が「進め」を表示したのを認め発進したが、前車が左折の合図をしながら進行速度がおそいのでその右側へ出て進行しようとしたが、左右の交通が閉鎖になつた直後であるから停止前の横断歩道を歩行中の者があることが予想されるから前車の前方の交通を確め安全を確認して進行すべきにかかわらず漫然交さ点直前において追いこそうとした業務上の過失により、前車の右側に並んだ際、前者の前方を左から右へ歩行横断中の赤坂栄一郎当三十四年を左斜前方約四、五米に認め急ブレーキをかけたが間にあわず自車の前部左側附近を右赤坂に衝突させ」よつて同人を死亡するにいたらしめたとの事実を認定し、被告人を業務上過失致死罪に問擬しているが、被告人が信号が「進め」を表示したのを認めて発進したのは信号が「進め」を表示すると同時に左右の交通が閉鎖になつた直後ではなく(前車の発進がおくれたため)その約一〇秒後であり、前車の右側に出てこれを追い越そうとし前車と並んだのは更にその数秒後であつて最早左右の交通停止前の横断歩道を歩行中の者があることは到底予想し得ない状態にあつたのであるから被告人がかかる歩行者があることを予想して前車の前方の交通を確かめ安全を確認して進行しなければならぬ注意義務、ひいてはこれが懈怠による過失の責を負ういわれはなく、却つて本件事故は、被害者赤坂栄一郎が信号機の表示を無視し左右の交通が閉鎖になつてから十数秒を経過しているのに拘らず敢て前車の前方を左から右へ横断しようとして歩行を開始し、且つ被告人運転の観光バスの存在に気づかなかつた過失により、前車の前方を横切つた直後、前車を追い越そうとしてその右側に並んだ被告人運転の観光バスの前面に出てその車体と衝突したために生じたものであつて、被告人にとつては不可抗力によるものと言うべきである。しかるに、原判決がこれを看過し、証拠に基かないで被害者が左右の交通停止前の横断歩道を歩行中前車の前方を左から右へ横切つた際、左右の交通閉鎖直後に発進して前車の右側に進出した被告人運転の自動車がこれと衝突したものと誤認し、且つこれを前提として被告人に原判示注意義務懈怠の罪責あるものとしたのは、事実を誤認し、且つ法令の適用を誤つたものであつてこれが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというに帰する。しかしながら、およそ自動車運転の業務に従事する者が自動車を運転して自動信号機の設置してある十字路交さ点にさしかかつた際、停止信号のため一時停止している自動車の直後に停止し、前車の車体又は積荷に遮られて横断歩道を左から右に歩行横断中の者又は横断しようとしている者の有無を確認することができない状態にあつた後、信号が「進め」を表示したのを認めて発進したが、前車の発進が遅れたため、又は前車が左折の合図をして発進しながら進行速度がおそいため、その右側へ出て進行し又はこれを追い越そうとする場合においては、前車の発進が遅れ又は発進後の進行速度がおそいのは、左右の交通閉鎖後の経過時間の長短にかかわらず、前車の前方を左から右に横断しようとしている歩行者があつてこれが前車の発進乃至加速進行を妨げているためである場合があることを予想することができるのであるからかかる歩行者との接触乃至衝突事故の発生を未然に防止するため、横断歩道を通過し終るか、又は少くとも前車の右側に進出し、横断歩道上又は交さ点内における歩行者の有無を確認し得る地点に達するまでは、前方(特に左方)を注視し、もしかかる歩行者があるのを認めたときは何時でも直ちに急停車乃至回避運転の措置をとることができる程度に徐行する業務上の注意義務があり、このことは歩行者に停止信号を無視して横断を開始した過失があると否とを問わないところ原判決挙示の証拠及び原審証人賀谷文夫の供述を綜合すれば、自動車運転の業務に従事する被告人が原判示日時原判示観光バスを運転し原判示場所の自動信号機の設置してある十字路交さ点にさしかかつた際、停止信号のため一時停止している大型貨物自動車の背後に、これと近接し、右貨物自動車の荷台の幌に遮られて前方横断歩道を左から右に歩行横断中の者又は横断しようとしている者の有無を確認することができない位置に停車した上、信号が「進め」を表示したのを認めて発進したが前車の発進が遅れ、且つ前車が左折の合図をして発進しながら進行速度がおそかつたため、その右側へ出て進行しこれを追い越そうとした際、叙上の注意義務を怠り、前車の前方を左から右に横断中の歩行者はないものと軽信して漫然時速約二〇粁で進行した過失により横断歩道にさしかかり前車とほぼ並行する位置にまで進出したとき前車の前方を左から右へ横断し自車の進路にさしかかろうとしていた歩行者赤坂栄一郎(当時三四年)を前方約四、五米に認め急停車の措置をとつたが及ばず、自車の前部左側附近を同人に衝突させて同交さ点路上にはねとばし、よつて同人をして、原判示重傷を負わせ、原判示日時、場所において死亡するに至らしめたものであることを肯認することができ、当審事実取調の結果もこれを裏付けるに十分であつて、所論のようにこれが不可抗力による事故であることはこれを認めるに由がない。而して原判決がその挙示する証拠により認定判示した罪となるべき事実は、その措辞些か尽さない嫌はあるが、結局これと同趣旨に出でたものと解することができるから原判決が被告人の所為を刑法第二一一条の業務上過失致死罪に問擬したのは正当であつて、所論のような事実誤認乃至法令適用の誤は存しない。

論旨は理由がない。

控訴趣意第三点について。

所論は原判決の量刑不当を主張するので記録を調査して考察するに、本件事犯は自動車運転手である被告人が観光バスを運転し、自動信号機の設置してある十字路交さ点において「進め」の信号により発進した直後、業務上の注意義務を怠り、前方路上を横断中の歩行者に自車の車体を衝突せしめてこれを死亡するに至らしめたものであつてその刑責は、車輛運転上の過失による人身事故が多発して社会不安を醸している現状の下において軽視するを許さないところであるが、他面、被害者が、歩行者に対する停止信号を無視して敢て道路を横断しようとし自らも右事故を招いた形跡が窺われないではなく、これら本件事故の原因、経過、態様、結果被告人の過失の程度を考慮し更に、被告人の年令、性格、職業歴、同種前科のないことなどを参酌すれば、被告人に対する業務上過失致死罪の所定刑中、特に罰金刑を選択し被告人を罰金三万円に処した原判決の科刑は相当であつて重きに過ぎることはなく、被告人においてこの程度の刑責を負うのはやむを得ないところと言うべきであるから、論旨は理由がない。

よつて刑事訴訟法第三九六条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 小林健治 遠藤吉彦 吉川由己夫)

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